「文明は進化するが、文化は進化しない」という言葉を聞いたとき、少し引っかかりを覚えた。
文明が進化するのは分かる。
しかし文化が進化しないとは、どういうことだろうか。
考えてみると、この言葉は、私たちが無意識に混同している二つの性質を、うまく切り分けているように思えてくる。
文明は、分かりやすい。
移動手段は徒歩から自動車へ、通信は手紙からスマートフォンへと変わり、より速く、より便利になってきた。
技術は前の段階を置き換えながら進んでいく。
陶芸の世界でも、窯の温度管理は経験と勘に頼る時代から、温度錐(ゼーゲルコーンなど)、アナログ温度計、さらにはデジタル制御へと移り、再現性や安全性は格段に向上した。
ここでは「新しいものの方が優れている」と言っても、大きな違和感はない。
ところが文化となると、話は少し変わってくる。
音楽を例に取れば、バッハの作品が現代音楽より劣っているとは誰も言わない。
ではビートルズはどうだろう。
録音技術も演奏技術も、今のミュージシャンの方が高いかもしれない。
それでも、ビートルズの音楽は今も世界中で聴かれ続けている。
彼らの作品は「未熟だった過去の音楽」ではなく、1960年代という時代の感性が結晶した完成形だからだ。
食文化も同じである。
江戸前寿司は、最新の科学的調理法から生まれた料理ではない。
しかし、それが現代料理より劣っていると感じる人はいないだろう。
フランス料理、中華料理、和食。
それぞれが異なる美意識と価値観の中で完成しており、上下をつけることはできない。
調理技術は進歩しても、「何をおいしいと感じるか」という感覚そのものは進化しない。
やきものもまたそうだ。
縄文土器や李朝の器は、現代陶芸の未完成形ではない。
どれも、その時代、その土地、その人々が出した答えであり、完成形である。
文化は変化し、混ざり合い、時に忘れられ、再び評価される。
しかし「進化した」「遅れている」と一直線に並べることはできない。
文明は「どう作るか」を洗練させていく。
一方で文化は、「なぜ作るのか」「何を美しいと感じるのか」を問い続ける。
文明は進化するが、文化は進化しない。
この言葉は、文化が停滞しているという意味ではない。
むしろ、文化が常に完成形として、時代ごとに並び続けていることを、静かに示しているのだろう。

